新在家濱太鼓台保存会-堺まつりふとん太鼓連合保存会-大阪府堺市

  • 会長−世話人

    副会長

    実行員→現場責任者

    青年會→飾華会(ギャル会)


  • 当会の地元地域は太鼓倉を設置している新在家西会館を中心に西三丁、四丁で、隣接する少林寺町西三,四丁にも多くの会員が住んでいます。 この辺りは旧堺市街に含まれる所で、町割りの原型は元和元年(一六一五)の大阪夏の陣に豊臣方大野道犬によって放火され二万の家屋や寺院を焼失しその後徳川家康の命により風間六右衛門が再興したもので元和の町割といわれています。 さて新在家町とはどんな町だったかといえば、浜手ということもあって漁業関係者や魚市場関係者が多かったようです。文字の意味からすれば、「在家」とは仏教用語でいう世俗に有りながらの信者をいい、反語は「出家」です。お坊さんを「出家」というのはここからきています。「在家」は住民、民衆という意味にも使われていました。 「新在家」とは新しい住民、地域という意味です。新在家濱はもと芦原濱の一部であり古い歴史がある地域です。神功皇后が三韓征伐の帰路この浜に九艘の船を着けここから上陸され東に進まれたとの伝説があり、現新在家町西会館の前の道路がそれで「九艘小路」といわれていました。芦原浜の一部に新たに民家が建ちここを芦原浜から区別する為に新在家浜が誕生したものと考えられます。 このような事例は全国的にもいくつかあり、「今在家」、「○○在家」などがこれと同様の意味です。現在の街並みは戦時疎開時からあまり変わって無いようです。住民の多くは会社員、自営業ですが中でも魚市場の関係者が多いのは古くからの地域性でしょうか。

  • 初代ふとん太鼓から四代目まで
    大正二年当時初代布団太鼓の購入について大峰山上岳講中の堺両郷宮組が尽力したことが大峰山上本堂の額面に太鼓台の役員、世話人の氏名を記載していることで証明されています。ここから昭和二十年までを知る史料が少ないためこの三十年ほどを初代としています。 二台目は、昭和二十三年終戦後はじめての八朔祭が斎行されることとなり地元有志によって復活修理の話が持ち上がり、町民は勿論各方面布団太鼓愛好家の浄財によって復興をみたのです。しかし、太鼓倉が無いため当時無住であった信悦寺(通称庵寺)を倉としていました。(現新在家西会館) 三台目が製作されることになったのは第一回「堺まつり」の後で翌年昭和五十年の秋に完成披露され第二回パレードに参加しています。この布団太鼓は前の太鼓台を復元新調したものでしたが材質に特に考慮され 本柱など主要な材には黒檀を使い、これに準ずる部材には紫檀、花梨な どの銘木が贅沢に使われました。錺金具は全て銀製で、正面桝合の彫り物は住吉神社大鳥居と反橋、住吉浜の高燈籠、虹梁には黒檀で龍が彫り込まれてあり、堺が住吉神社の神領地であったことの名残りでしょうか。これを製作したのは「愛媛家具工芸」という会社でしたが、 四台目が新調されたのは平成六年で、台の新調にともなって天保年間製作と伝えられる胴長太鼓も老朽化していたことや、新台の大きさに合わないため新調されることになりました。

日本で唯一の青い結びが特徴の装飾を施し、菊水を町の紋とした新在家濱太鼓保存会です。