新在家濱太鼓台保存会-堺まつりふとん太鼓連合保存会-大阪府堺市

  • 堺の練り物は明治以前から「だんじり」・「鉾」・「布団太鼓」が存在したことは大井利久氏の研究によって従来の定説とは違うことが明らかになりましたが、新在家濱の場合は従来説の通りで、 もとはだんじりだったようです。やはり明治のだんじり騒動が原因で中絶を余儀なくされ、大正二年に大正天皇の御即位奉祝のため初代の布団太鼓が購入されたようです。 では以前のだんじりはというと売却されましたが現在も河内長野市小塩町にあって烏帽子形八幡宮の祭礼に曳かれているということです。当時(明治三十年頃)曳行禁止のままだったこの地車は堺で一、 二と云われた名地車で堺彫所こと「彫又」の作で天保年間に作られたと思われます。「彫又」とは堺大寺北門筋永福寺町(現市之町)に住居した彫り物師で、 初代は西岡又兵衛(桝屋又兵衛)で代々優秀な後継者を輩出し、同門には大阪天満宮表大門を手がけた小松源助などがいます。

  • 家紋の多くは戦国時代の武将が用いた旗印に始まるといわれていますがそれ以前は皇族、公家の家を表す文様として用いられていたものです。 菊水紋は「菊に流れ」ともいわれ、楠氏の家紋とされる紋であります。新在家町西一丁には多聞山善宗寺があり、現在の住職は高橋氏ですが以前は楠氏であったとのことで、 寺紋はやはり菊水を用いておられます。慈光寺と善宗寺との関係について慈光寺の現住職は特に無いといわれています。 慈光寺の古文書は堺大空襲によって寺とともに焼失しているために正確なことは不明というのが本当のところです。したがって、新在家濱と楠氏との関係を明らかにすることはできません。 新在家濱には鮮魚商等が多かったせいか布団締隠額には鯛が跳ねる姿になっていましたたが、終戦後に八朔祭が斎行されることとなり、これに合わせて復活した布団太鼓のあなご屋仲、 魚小売仲などが鯛の紋様を用いていて中向き、外向き、額付と様々に使われていたため、それらと区別する必要性から改紋を計画する声があがり、 戦時中の楠正成公を賞賛する世相の影響かまたは太鼓仲の役員に楠氏の関係者がいたのかして現在の菊水紋になったのではないかと思われます。
    布団太鼓の装飾のうち最も上部にあるのが「結び」で「とんぼ」ともいわれています。堺をはじめ色々な地域に様々の布団太鼓があり、結びのあるものとないものがあります。 堺の布団太鼓は結びのある形ですが新在家濱が浅黄色である以外は全て白色です、浅黄色は本来薄い水色ですが近年濃い色合いになりつつありますので青に近いかも知れません。 結び方にはいくつかあるようですが、当町は本結びといい一般的な結び方です。ではどうして新在家濱だけが青いのでしょうか。 堺における布団太鼓の隆盛期は大正の二年頃から昭和の初年にかけて軍事色の少ない時代で世の中が自由な風潮ですから、ある太鼓は布団の色を変え、 千鳥の刺繍を施したり、房の色にしても中赤、金筋、黒房、紫房と色々あったのですから浅黄の結びがあっても驚くほどのことはなかったようです。

日本で唯一の青い結びが特徴の装飾を施し、菊水を町の紋とした新在家濱太鼓保存会です。